『待兼山論叢』芸術篇(第48号までは美学篇) 最新総目次・論文検索・本文閲覧
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『待兼山論叢』第52号芸術篇(2018) 2020年PDF公開
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『待兼山論叢』第51号芸術篇(2017) 2019年PDF公開
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『待兼山論叢』第50号芸術篇(2016)  [本文PDF閲覧]
近世ベトナム国家の異民族観の変容と越境者─内なる化外たる儂人をめぐって(岡田雅志)
季御読経の成立と防災方針の変化(内田敦士)
ヤマト政権成立期における猪名川流域の重要性(福永伸哉)
古代ローマの農事書における「健康的な場所」(堤亮介)

『待兼山論叢』第49号芸術篇(2015)  [本文PDF閲覧]
自文化接触演劇と再文脈化の手法─メイエルホリド演出『スペードの女王』を題材に(永田靖)
イネッサ・ハシュパ(1938-1967)の『アブハジアの民俗楽器』(1967)におけるアブハズ・アディゲ語族文化的同族性─ソ連期のグルジア・ナショナリズムと関連して(久岡加枝)
アルハンブラ宮殿の近代の修復(佐藤紗良)
神への讃歌─ギュスターヴ・モロー作《ユピテルとセメレ》における竪琴の象徴性(金岡直子)

『待兼山論叢』第48号美学篇(2014)  [本文PDF閲覧]
高階隆兼の画業再考─彫像への彩色について(橋本遼太)
ラプソディ史補論(伊東信宏)
デリダによるコンディヤック─方法としての類比(小田昇平)
手話演劇の様相─車座の実践と岸田理生の戯曲を通して(岡田蕗子)

『待兼山論叢』第47号美学篇(2013)  [本文PDF閲覧]
能楽の近代化と高木半─その履歴と能楽改良論への能役者の反応をめぐって(中尾薫)
カルロ・クリヴェッリ作《聖母子と聖人たち》─19世紀の売却史料群から(上原真依)
高木東六のピアノ作品─その特徴的性格(樋口騰迪)
芥川龍之介の文芸観─クローチェ美学からの影響関係を中心に(橘昭成)

『待兼山論叢』第46号美学篇(2012)  [本文PDF閲覧]
芸術と死─ベンヤミン『ドイツ悲哀劇の根源』における悲哀劇と悲劇(田中均)
河鍋暁斎筆「地獄極楽めぐり図」と勝田家菩提寺(曽田めぐみ)
再構成される〈詞〉と拡張される〈心〉─藤原為家の歌論と実践に見る「古歌」再利用意識(土田耕督)
ジェンダーからの逸脱─『 エオンナガタ』におけるシュヴァリエ・デオン像(神崎舞)

『待兼山論叢』第45号美学篇(2011)  [本文PDF閲覧]
文学作品の課題をめぐる解釈の変容─Adalbert Stifterの『晩夏』受容史を起点に(中野逸雄)
戦後放送音楽の「ホームソング」志向と三木鶏郎(輪島裕介)
G・リゲティの《時計と雲》における変容─反復・クラスター・カノン(奥村京子)
ヘルドルプ・ホルツィウス作「マルティン・ヒュロー夫妻の肖像画」─17世紀ネーデルラント商人の結婚政策と肖像画(河内華子)

『待兼山論叢』第44号美学篇(2010)  [本文PDF閲覧]
江戸時代における中国絵画受容の問題─池大雅の款記に見られる「写意」をめぐって(濱住真有)
「役者子ども」のもつ想像力─秋浜悟史『幼児たちの後の祭り』と『ロビンフッド劇』をめぐって(須川渡)
プロクロス『プラトン『国家』註解』第5 論稿の研究(加藤浩)
プラトン『国家』におけるムーシケー論(里中俊介)

『待兼山論叢』第43号美学篇(2009)  [本文PDF閲覧]
輪廻と諦観─小津安二郎『麦秋』について(上倉庸敬)
新民謡《須坂小唄》にみる中山晋平の作曲理念(齋藤桂)
1937年のパリにおける美術展─「フランス美術傑作」展のナショナリズム(礒谷有亮)
ヴァレール・ノヴァリナの演劇における救済─『激昂空間』の「ジャン」をめぐって(井上由里子)

『待兼山論叢』第42号美学篇(2008)  [本文PDF閲覧]
大阪画壇研究補遺─「北野恒冨展」をめぐって(橋爪節也)
引窓の光と陰─「引窓」解釈の歴史を読み解く(多田英俊)
大報恩寺六観音像に関する一考察─十一面観音像と聖観音像におけるの模刻の問題を中心に(山口隆介)
エドワード・バーン=ジョーンスの絵画空間おける平面性(久保美枝)

『待兼山論叢』第41号美学篇(2007)  [本文PDF閲覧]
ロダンにおける≪青銅時代≫の位置─「面plan」の概念に即して(島本英明)
クスコ司教モリネドの聖堂建設・装飾事業─1673-1699年(岡田裕成)
ウォルター・クレインと日本美術─資料研究序論(田中竜也)
カルロス・ベカCarlos Vega(1898-1966)による/についての記述をめぐるアルゼンチン音楽研究についての一考察(川端美都子)

『待兼山論叢』第40号美学篇(2006)  [本文PDF閲覧]
歌舞伎様式の摂取─大正十五年の井上正夫(横田洋)
大宋屏風と馬形障子(金子岳史)
エウリピデス「メデイア」における地と天上─新たな狂気の創造(内田次信)
「生きている生」は、感じとる(春木有亮)

『待兼山論叢』第39号美学篇(2005)  [本文PDF閲覧]
明治期の美術工芸論における「嗜好」と「流行」─京都論壇での展開から(平光睦子)
日本の合唱史における─その意義と位置づけをめぐって(山口篤子)
ルーマニア民俗音楽の「性格」をめぐって─エネスク≪ヴァイオリン・ソナタ第3番≫に関するいくつかの論点(伊東信宏)
マックス・エルンスト作≪風景≫(S/M612)について─アメデ・ギルマン著「磁気学と電気学」からの一考察(国吉貴奈)

『待兼山論叢』第38号美学篇(2004)  [本文PDF閲覧]
歴史における美の感性─ひとつのアドルノ論(大橋良介)
近衛篤麿の『蛍雪余聞』にみるミュンヘンの原田直次郎(宮本久宣)
芥川の墨画と文人的風流(高橋奈保子)
様式の交代─村山知義作・演出『孤児の処置』の分析(正木喜勝)

『待兼山論叢』第37号美学篇(2003)  [本文PDF閲覧]
戦国時代の青銅器に表された山岳狩猟図─自然風景と祭祀活動の図像表現に注目して(龔詩文)
ピカソの《アヴィニョンの娘たち》(若山映子)
1920年代フランスにおける『エスプリ・ヌーヴォー』の位置(千葉真智子)
琵琶武曲《十面埋伏》《覇王卸甲》の版本間における変異性をめぐって(橘田勲)

『待兼山論叢』第36号美学篇(2002)  [本文PDF閲覧]
芸術と受肉(上倉庸敬)
冷泉為恭筆「年中行事図」について(宇野干代子)
世阿弥の「鬼」再検─「砕動風」「力動風」の位相の変遷(澤野加奈)
焦点化に関する考察(萩原康一郎)

『待兼山論叢』第35号美学篇(2001)  [本文PDF閲覧]
説法印阿弥陀如来像をめぐる試論(藤岡穣)
自由・創造・生─メルロ=ポンティ『セザンヌの疑劇』より(岩崎陽子)
Festspiel als Festspiegel祝祭鏡としての祝祭劇─ザルツブルク・フェスティバルにおける意義の変容(宮本美紀)
ルーヴル美術館スペイン・ギャラリーにおける「スペイン美術」の形成─テロール男爵による作品収集とスペイン側の対応(宮崎奈都香)

『待兼山論叢』第34号美学篇(2000)  [本文PDF閲覧]
文学と言語─言語芸術における意味(蔵本典之)
北野恒富筆「道行」について(川西由里)
日本のマックス・ラインハルト受容─小山内薫を中心に(大林のり子)
ミュートスとロゴス(加藤浩)

『待兼山論叢』第33号美学篇(1999)  [本文PDF閲覧]
明治五年刊『西洋家作離形』の建築用語(藤田治彦)
藝術作品とハイデガーの世界概念(石黒義昭)
岩倉使節団が見聞した西洋音榮(奥中康人)
聖ニコラオスの聖人伝イコン─聖人伝サイクルにおけるテクストとイメージ(吉松実花)

『待兼山論叢』第32号美学篇(1998)  [本文PDF閲覧]
歴史小説の間テクスト性─島崎藤村の『夜明け前』との関連において(高瑛子)
江戸期の日吉大夫(宮本圭造)
四条河原遊楽図の成立と展開(阿部彩子)
ヨーゼフ・ラスカ(1886~1964)と宝塚交響楽団(根岸一美)

『待兼山論叢』第31号美学篇(1997)  [本文PDF閲覧]
意味への飛躍─絵画における芸術経験(三木順子)
ファン・ゴッホとロシア文学─〈夜のカフェ〉、〈アルルの病室〉とトルストイ、ドストエフスキー(圀府寺司)
ジョン・ケージの日本音楽受容─笙のために作曲された作品を中心に(上野正章)
1920年代前半のヴァシリー・カンディンスキー─幾何学的抽象における絵画「空間」をめぐって(清水佐保子)

『待兼山論叢』第30号美学篇(1996)  [本文PDF閲覧]
俳優と観客の対峙─メィエルホリドの観客論(永田靖)
シェリング「悲劇論」の分析(市村俊信)
葛飾北斎筆「神奈川沖浪裏」をめぐって(安井雅恵)
東本願寺の能楽─寺侍宮谷を中心に(小林英一)

『待兼山論叢』第29号美学篇(1995)  [本文PDF閲覧]
日本とファン・ゴッホ、その序論的考察(原田平作)
藤原定家の「歌つくり」と「歌詠み」について─創造と表現との相違(伊達立晶)
宮芳平と大正期の洋画(堀切正人)
口頭伝承による神楽の詞章─岩見神楽の場合(テレソス・A・ランカシャ)

『待兼山論叢』第28号美学篇(1994)  [本文PDF閲覧]
美人と犬(奥平俊六)
ジゼール・ブルレのリズム論─リズムと拍子の関係をめぐって(田之頭一知)
頁珠庵蔵竹石白鶴図試論(錦田稔)
天保改革と大坂の芸能統制─『天保御改正録』所収文書をめぐって(中川桂)

『待兼山論叢』第27号美学篇(1993)  [本文PDF閲覧]
機器のもたらす音楽の「近代化」─『一般音楽新聞』にみるメトロノームの完成と普及(渡辺裕)
J. M. W. ターナーにおける伝統と革新(小村みち)
天井から吊るされた帽予掛け─ポップ・アートを中心としたアメリカ現代美術における「物質性」と「観念生」(田中不二夫)
カール・マリア・フォン・ヴェーパー〈ピアノソナタ〉作品24終楽章におけるヴィルトゥオーゾ的なものと形式(白石知雄)

『待兼山論叢』第26号美学篇(1992)  [本文PDF閲覧]
芸術作品におけるリズムと時間(上倉庸敬)
解師伐衰図について(高松良幸)
The Characters of Panthea and Ione in Shelley's Prpmetheus Unbound(Ralitza Konstantinova)
『ブシコー元帥の時祷書』─空気遠近法とその構成をめぐって(小林典子)

『待兼山論叢』第25号美学篇(1991)  [本文PDF閲覧]
R.オーデブレヒトおよびM.ガイガーにおける美約価値論の問題(高梨友宏)
春日大社蔵競馬図屏風をめぐって(泉万里)
ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂天井画─《アダムの創造》(若山映子)
天神祭における音楽空問の生成と意味─鉦と太鼓の文化的象徴性と意味解釈への試み(朱家駿)

『待兼山論叢』第24号美学篇(1990)  [本文PDF閲覧]
室町後期の「翁座」の動向─住吉社御田植神事の猿楽をめぐって(天野文雄)
『ドン・ジュアン』の美の位相(その一)─モリエール研究・3(加藤貞史)
プレ・マリン・スタイル段階における蛸のモチーフの形成と図像学的発展(勝又俊雄)
日本の音楽教育における合唱─柴田南雄の作品を中心にして(永原恵三)

『待兼山論叢』第23号美学篇(1989)  [本文PDF閲覧]
芸術の本質と意義─ニーチェの芸術観への一展望(森谷宇一)
書における線の意味(萱のり子)
天台宗儀礼における座の屏風(鬼原俊枝)
音楽における枠組みと逸脱─ベーラ・バルトークの〈ミクロコスモス〉─第101番〈減五度〉をめぐって(伊東信宏)

『待兼山論叢』第22号美学篇(1988)  [本文PDF閲覧]
今熊野狭楽の実現─義満台覧の背景をめぐって(天野文雄)
ドストエフスキーにおける美的イメージについて(西村美由起)
J.ポロックのドリップ絵画─生命的な主題をめぐって(仲間裕子)
シラーの美的教育論─「手段」としての美と「目的」としての美の関係(山下純照)

『待兼山論叢』第21号美学篇(1987)  [本文PDF閲覧]
モリエールのドラマトゥルギー(加藤貞史)
清代初期松江の画家顧大申(吉田晴紀)
音楽活動の中心としての演奏─伝達の枠組からの脱却の試み(前川陽郁)

『待兼山論叢』第20号美学篇(1986)  [本文PDF閲覧]
ミュートスにおける論理性と反期待性─アリストテレス『詩学』9、1452a4より(戸高和弘)
The Penitence of David in Paris,Bibl.Nat,Cod.gr.510─Iconography and Its Place in Byzantine Manuscript Illustration(Ishizuka Akira)
調性格論序説(樋口光治)

『待兼山論叢』第19号美学篇(1985)  [本文PDF閲覧]
芸術の意義─フィードラーの芸術論をめぐって(斎藤郁夫)
ドイツ表現主義における音楽と色彩(神林恒道)
The Temporal Structure of Pictorial Narrative Representation: A Methodological Essay(Part Two)(Tsuji Shigebumi)
R.シュトラウス“ばらの騎士”をめぐって─1幕の楽曲統一原理(岡田暁生)

『待兼山論叢』第18号美学篇(1984)  [本文PDF閲覧]
芸術と規則(犬伏雅一)
能における幽玄(柴田勝二)
The Temporal Structure of Pictorial Narrative Representation: A Methodological Essay(Part One)(Tsuji Shigebumi)

『待兼山論叢』第17号美学篇(1983)  [本文PDF閲覧]
創造と認識─フィードラーの芸術理論をめぐって(浜田拓志)
ベートーヴェンの交響曲分析試論─第1番(作品21第1楽章(中川真)
Ibo族の仮面における色彩の象徴性(吉田憲司)

『待兼山論叢』第16号美学篇(1982)  [本文PDF閲覧]
歴史的民族音楽学の必要性と可能性─とくにオセアニアの研究例に依拠した考察(山口修)
アナトリアの初期農耕文化と偶像─チャタルフユック出土偶像の意味(丹司正子)
The Front Panels of Maximian's Chair,Ravenna─Style and Composition(浅野和生)

『待兼山論叢』第15号美学篇(1981)  [本文PDF閲覧]
リュベンスにおける最終審判と地獄墜落─ミュンヘン、アルテ・ピナコテク蔵の三作品をめぐって(玉田純子)
パプア・ニューギニア、イアトモイ族の〈Wavinlangut〉分析─民族音楽学の一方法の提示として(山田陽一)
悲劇的感情の所在─S. K.ランガー『感情と形成』の演蔚観をめぐって(中司淳子)

『待兼山論叢』第14号美学篇(1980)  [本文PDF閲覧]
志度寺縁起絵考(南谷敬)
A Note on the Illustrations in Some Non-Greek Tetraevangela Manuscripts(辻成史)
シェリングにおける自然と芸術─カントとの関連において(岡林洋)

『待兼山論叢』第13号美学篇(1979)  [本文PDF閲覧]
直感的判断力と理念(大森淳史)
矢田地蔵縁起絵巻の筆者に関する一考察(瀧尾貴美子)
モンゴルのオルティンドー(中川真)

『待兼山論叢』第12号美学篇(1978)  [本文PDF閲覧]
禁欲の芸術家─カフカ『或る犬の探究』論(石光輝子)
Über das Vergängliche in der Musik(谷村晃)

『待兼山論叢』第11号美学篇(1977)  [本文PDF閲覧]
伝ドナテルロ作聖母子浮彫(ボストン美術館蔵)について(辻成史)
芸術の遊戯論的考察(石田正)
「従三十三天降下」図の図像(肥塚隆)

『待兼山論叢』第10号美学篇(1976)  [本文PDF閲覧]
音楽と音楽学(山口修)
シェリングの芸術哲学(神林恒道)
フィラレーテと15世紀イタリアの文化─ローマ聖ピエトロ大聖堂扉(若山映子)

『待兼山論叢』第9号美学篇(1975)  [本文PDF閲覧]
海北友松における人物画体(武田恒夫)
Qu'est-ce que l'Art Primitif?(Shigenobu Kimura)
幻の「詩学」第2巻(当津武彦)

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