『待兼山論叢』哲学篇 最新総目次・論文検索・本文閲覧
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『待兼山論叢』第52号哲学篇(2018) 2020年PDF公開
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『待兼山論叢』第51号哲学篇(2017) 2019年PDF公開
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『待兼山論叢』第50号哲学篇(2016) [本文PDF閲覧]
戦国簡に見える「?」字およびその関連問題について(曹方向)
倫理と組織─社会システム理論から見た倫理の可能性(堀江剛)
祭式を裏付ける「知識」を巡って─古ヴェーダ祭式文献におけるyá evám̐ vidvā́n / véda の使用法と哲学思想の発展(天野恭子)
スピノザ『エチカ』における規範という問題(小田裕二朗)
ヨーナスにおける“人間の自由”について─哲学的生命論と未来倫理の連関を中心に(戸谷洋志)
自閉症概念の変遷と事例からの検討─みるものとみられるものとの関係という視点(永浜明子)
『待兼山論叢』第49号哲学篇(2015) [本文PDF閲覧]
「主」と「客」─兵家と道家を中心として(湯浅邦弘)
消された「致知格物」章─五井蘭洲『質疑篇』と中井履軒『質疑疑文』(佐藤由隆)
Samyuttanikaya 12.64に関する一考察─xpatitthitam tattha vinnanamの原意とその受容(名和隆乾)
可能的なモナドは存在しない?─ライブニッツにおける現実世界(阿部倫子)
真理の「血肉化」としての笑い──ニーチェ『愉快な学』における「実験」思想(井西弘樹)
フッサールとアヴェナリウス生活世界の起源について(山口弘多郎)
『待兼山論叢』第48号哲学篇(2014) [本文PDF閲覧]
銀雀山漢墓竹簡「聴有五患」と古代中国の「聴」(椛島雅弘)
問いと推論(入江幸男)
スピノザ『知性改善論』における観念の観念と確実性について(小竹陽介)
ニーチェ『悲劇の誕生』におけるアポロンについて(谷山弘太)
Schuldgefuhle und Selbst(Sawako HATTORI)
Bhagavati Aradhanaが記すdasa kamavasthah(河崎豊)
『待兼山論叢』第47号哲学篇(2013) [本文PDF閲覧]
清華簡『説命』の文献的特質──天の思想を中心に(金城未来)
The Disabled Body,the Able-bodied Form: A Feminist Exploration of Dialogue between Beauvoir and Fanon(Minae INAHARA)
魂の内的葛藤について─デカルト『情念論』第47項(野々村梓)
神の存在・本質・力能─スピノザ『エチカ』におけるその同一性と原因の一義性(藤野幸彦)
法システムと正義の概念(東暁雄)
Rasa in Vedic Literature: A Philological Study on a Mythological River(Tomoki YAMADA)
『待兼山論叢』第46号哲学篇(2012) [本文PDF閲覧]
デカルトは矛盾しているか?─心身の実体的区別と合一(上野修)
懐徳堂研究の新展開(大阪大学中国哲学研究室)
ベルクソンの直観概念─共感と神秘的経験(田中悠介)
真理の多元主義は包括的真理をどのように扱うのか─混合連言の問題をめぐって(原田淳平)
ニクラス・ルーマンのシステム論を用いた対話型コミュニケーション活動の考察(小菅雅行)
五蓋を捨離するということ(古川洋平)
『待兼山論叢』第45号哲学篇(2011) [本文PDF閲覧]
銀雀山漢墓竹簡「五議」について(金城未来)
M.フーコーの社会医学/公衆衛生の記述について(大北全俊)
デカルトにおける「能動-受動」概念(野々村梓)
語りえなさをめぐる「人格」と「非人格的なもの」─S.ヴェイユにおける「人格と聖なるもの」を手がかりに(高山佳子)
討議の規則知は誰の知か(嘉目道人)
チャンナの自殺(名和隆乾)
『待兼山論叢』第44号哲学篇(2010) [本文PDF閲覧]
脳死臓器移植問題への現象学的アプローチにむけて(浜渦辰二)
遂行的矛盾と〈応答〉としての責任─「規範の欠陥は遂行的矛盾において明らかとなる」(舟場保之)
銀雀山漢墓竹簡「兵之恒失」考釈(金城未来)
Maitrāyanī Samhitā IV 2,1(Gonāmika 章冒頭)の研究(天野恭子)
Ullin Place's Cartesian Remnants: Identity Theory and the Lack of Animal Minds(Luke MALIK)
熟議民主主義としての市民参加型会議─日本における現状と展望(森本誠一)
『待兼山論叢』第43号哲学篇(2009) [本文PDF閲覧]
ダイモニオンの警告─ニーチェとその父(須藤訓任)
中国古代における王の呼称─上博楚簡『鄭子家喪』を中心として(草野友子)
無所有処に関する表現の一考察(畑昌利)
ウーシアをめぐる二種類のロゴス─ハイデガー哲学におけるアリストテレス解釈から(安里淳)
真理という女─後期ニーチェ思想における真理像(生島弘子)
権力・場・主体─フーコーとブルデューの社会分析(松川絵里)
『待兼山論叢』第42号哲学篇(2008) [本文PDF閲覧]
国会図書館蔵『中庸聞書』について(池田光子)
後期西田哲学における事実と知識の問題(田中潤一)
科学技術と市民参加─参加の実質化とその課題(中村征樹)
魂の立ち位置─デカルトにおける内的情動の只中で(富岡基子)
J.S.ミルにおける市民の陶冶と公的参加(樫本直樹)
『スッタニパータ』「ヴァンギーサ経」における涅槃について(富田真理子)
『待兼山論叢』第41号哲学篇(2007) [本文PDF閲覧]
世界のうちへと導きいれること─アーレントの教育論をめぐって(三浦隆宏)
『懐徳堂印存』の成立(草野友子)
独在的な使用と経験的な使用─ウィトゲンシュタイン哲学によるウィトゲンシュタイン哲学批判の試み(重田謙)
カントの方法─『活力測定考』における数学(中村修一)
ライプニッツは生涯を通じて唯名論者であったか?(山口裕人)
Satapatha-BrahmanaのVajapeyaに関する一考察─Madhyandina派とKanva派の比較研究(池田宣幸)
『待兼山論叢』第40号哲学篇(2006) [本文PDF閲覧]
フッサール現象学における自明性─排中律の擁護と意識の目的論的構造(紀平知樹)
中井履軒の「徳」解釈の構造─「四徳」への解釈を中心として(池田光子)
歴史的出来事の実在性をどう考えるか─A・C・ダントーにおける歴史の物語り論の検討(大塚良貴)
saddharma という複合語について(河崎豊)
『存在の彼方へ』における受動性(西田充穂)
Hume's Idea of Self and Its Need for Others(Aizawa Kuniko)
『待兼山論叢』第39号哲学篇(2005) [本文PDF閲覧]
創造の持続、はじまりの偏在(平光哲郎)
科学者の誠実さとはなにか(森田邦久)
懐徳堂学派葬祭説の来源─『喪祭私説』主面書式を手掛りにして(黒田秀教)
A morphological study of the first person subjunctive in the Rigveda(Doyama Eijiro)
Varsavastu の再校訂に向けて(生野昌範)
『意識に直接与えられたものについての試論』の問題と身体(桑原英之)
『待兼山論叢』第38号哲学篇(2004) [本文PDF閲覧]
爽の延熹対策について(辛賢)
創造論と内在因としての実体─ピエール・べールのスピノザ批判(中野彰則)
フッサールの「世代発生的考察」について(前田直哉)
他者から/他者へ─メルロ=ポンティと他者(岸田智)
『夢占逸旨』外篇について(上野洋子)
Kumarabhuta小考(大西啓一)
『待兼山論叢』第37号哲学篇(2003) [本文PDF閲覧]
感覚に対する「指示」(重田謙)
『純粋理性批判』における判断表の完全性をめぐって─K. ReichとR. Brandtの解釈(森芳周)
章学誠における経書の位置(黒田秀教)
Taittiriya-Samhita第7章とサーマヴェーダ所属ブラーフマナ(大島智靖)
指標詞「私」と世界内の人物(木村健)
信念文における話し手による指示と信念者による指示(入江幸男)
『待兼山論叢』第36号哲学篇(2002) [本文PDF閲覧]
強度のシステム─『差異と反復」におけるフロイト解釈に寄せて(本間直樹)
知覚における絵画的意味(高橋綾)
中井履軒『孟子逢原』の王道観(池田光子)
デカルトの「智慧」と「徳」─述懐されない「備えのための道徳」第四格率をめぐって(津崎良典)
中期ハイデガーにおける存在思推1の変遷(西松豊起)
初期仏典における存在思惟の諸相(畑昌利)
『待兼山論叢』第35号哲学篇(2001) [本文PDF閲覧]
精神科学における基礎付けの概念(溝口宏平)
記憶と自我の同一性─ライプニッツにおける記憶について(松田孝之)
初期ハイデガーにおける歴史的生についての試論(入谷秀一)
対話と真理─ソクラティク・ダイアローグの理論的前提(寺田俊郎)
『白虎通義』諌静篇に就いて─漢代に於ける「諌静」の一側面(前川正名)
Sukhavativyuha(梵文無量寿経)、東方偈の研究─和訳と註(1)(福井真)
『待兼山論叢』第34号哲学篇(2000) [本文PDF閲覧]
『動物論』とその周辺─ビュフォンとコンディヤック(望月太郎)
ニーチェにおける「病気」と「健康」の思想(茶園陽一)
『古文孝経孔氏伝』偽作説について(佐野大介)
ベルクソン哲学における科学の位置付け(陀安広ニ)
ミルと自律性(馬嶋裕)
apadana/avadanaについて(河崎豊)
『待兼山論叢』第33号哲学篇(1999) [本文PDF閲覧]
純粋経験について(里見軍之)
自然と人間の関わり合いについて─ハイデガーにおける〈世界〉とピュシスの概念を手掛かりに(土井理代)
『愼子』における「因」の思想(井上了)
スピノザにおける「神の存在証明」(堀江剛)
連帯する哲学と政治─後期メルロ=ポンティにおける「哲学の理念」と政治(西村高宏)
持続と系─ベルクソニズムにおける物質観(林照顕)
『待兼山論叢』第32号哲学篇(1998) [本文PDF閲覧]
キェルケゴールの「想起」論(浅野遼ニ)
生の共同体について─ベルクソンにおける他者把握の可能性(吉永利加)
個人主義的言語観の検討─チョムスキーのクリプキ批判をめぐって(大石敏広)
前漢東海郡の学術的動向(釜田啓市)
マックス・シェーラーの共感論─ケアの哲学のために(紀平知樹)
Sukhavativyuha(梵文無量寿経)の研究─流通傷を中心にして(福井真)
『待兼山論叢』第31号哲学篇(1997) [本文PDF閲覧]
ヘーゲルの「実在性」論(中岡成文)
黄震の『春秋』解釈(神林裕子)
スピノザにおける感情と観念(中田勝也)
中期ハイデガーの真理論─真理の本質を目指す問いと転回(中橋誠)
コナトゥスから救済へ─スピノザにおける救済の根底的基礎としてのコナトゥスについて(川村厚)
Mahabharata VI.5-13の世界観(井上信生)
『待兼山論叢』第30号哲学篇(1996) [本文PDF閲覧]
「日常性」と解釈学─ハイデガーの基礎的存在論における「日常性」概念の考察(佐々木正寿)
意識の自己準拠─意識の超越論的哲学とシステム論の関係について(本間直樹)
「朝三暮四」説話小考(古賀芳枝)
罪業の消滅とprayascitta(榎本文雄)
「自己自身を見ること」─デカルトにおげる「私」の観念の発生(米虫正巳)
Agnihotra祭におけるPrayascittiについて─Garhapatyaが消える揚合(阪本恭子)
『待兼山論叢』第29号哲学篇(1995) [本文PDF閲覧]
夢の書の行方─敦厚本『新集周公解夢書』の研究(湯浅邦弘)
知の理論としての志向的分析─志向的対象を手引きとして(家高洋)
純粋概念と絶対的な無の〈論理〉的展闘について(前崎一幸)
王闓運の貧富論─『論語訓』を中心として(横久保義洋)
カントの幸福概念─構想ガと判断力を手がかりに(田中朋弘)
Sukhavativyuha(梵文無量寿経)東方偈の研究(福井真)
『待兼山論叢』第28号哲学篇(1994) [本文PDF閲覧]
知覚判断と経験判断─カント認識論における知覚とカテゴリーの関係(壹岐幸正)
『図書編』の書誌学的考察(矢羽野隆男)
善導における道綽の影響─「懺悔」をめぐって(宮井里佳)
問題の分類(入江幸男)
コンディヤックにおける「分析」について(高橋靖)
F.ニーチェの教育観─《Zucht》の概念を手掛かりにして(阪本恭子)
『待兼山論叢』第27号哲学篇(1993) [本文PDF閲覧]
黄震の経学─「読礼記」における注釈の態度(神林裕子)
カント実践哲学における演繹の構造(藤原武)
コギトの声・現前する反復─身体と記号・声・ことば(
知覚主体と世界一ベルクソンの知覚論から(山形頼洋)
構想力と美─カント美学の射程(甲田純生)
Cosmology in Bhagavatapurapa II.1-2(Nobuo Inoue)
『待兼山論叢』第26号哲学篇(1992) [本文PDF閲覧]
〈ある〉と〈もつ〉─「所有」という観念についての試論(1)(鷲田清一)
〈鄭玄の経学〉に表れた人物評価(南昌宏)
イエナ期へーゲルの人倫思想─労働を鍵概念として(徳永哲也)
知覚の「ぶれ」と主体の時問的な「ずれ」─メルロー・ポンティ哲学における相互主体性の問題を巡って(束昌紀)
知識と権カ─言説としてのオリエンタリズム(黒瀬勉)
Linga in the Vaisesika and the Mimamsa(Toshihide Adachi)
『待兼山論叢』第25号哲学篇(1991) [本文PDF閲覧]
『全知識学の基礎』に於ける「叙述」(Darstellung)の意義と役割(本田敏雄)
「雑家」の定義(藤居岳人)
The Fundamental Truth of Buddhism: Pratityasamutpada in Mahayana Buddhism─Conditioned Being(Noritoshi Aramaki)
Bodhicaryavataraの基本性格─一人称め意味するもの(梶原三恵子)
スミス倫理学の成立に関する一考察─いわゆる「是認・称賛への欲求」をめぐって(柘植尚則)
『待兼山論叢』第24号哲学篇(1990) [本文PDF閲覧]
〈『孝経』の作者〉の意味(加地伸行)
デカルト『規則論』を技術の観点から読む(望月太郎)
契嵩の『非韓』(湯城吉信)
『道行般若経』における授記にっいて(志知丈夫)
人倫性と歴史─へ一ゲルの歴史哲学における主体性の問題(霜田求)
Towards the Way Out from the Closed System of Husserl's Monadology(Yoshihiko Itakura)
『待兼山論叢』第23号哲学篇(1989) [本文PDF閲覧]
ハイデッガーのカント解釈─構想力と時間(里見軍之)
カントに於ける選択としての宗教(舟場保之)
筍子における天(竹田健二)
ロックの自然状態に関する一考察(村上弥生)
ベルクソンの直観論─「漠然とした直観」から「判明な直観」ヘ(加藤憲治)
最初期ウパニシャッド文献の成立と伝承─Jaiminiyaa-Upanisad Brahmana研究序説(藤井正人)
『待兼山論叢』第22号哲学篇(1988) [本文PDF閲覧]
歴史なぎ民族(伊東道生)
孟子の「中」について(杉山一也)
へ一ゲル『法哲学』における道徳性批判(霜田求)
デカルトのコーギトーとメルロ=ポンティの時間性─我疑ウでもなく我考ウでもなく…されど我有リ(山形頼洋)
デカルトにおける本有観念としての神─その受動の仕方(宮崎隆)
The Fundamental Truth of Buddhism: Pratityasamutpada─Conditioned Becoming and Conditionless Being(Noritoshi Aramaki)
『待兼山論叢』第21号哲学篇(1987) [本文PDF閲覧]
批判と啓蒙(田中誠)
孟子の義内説(吉永慎二郎)
二つの志向性(山田徹郎)
初期瑜伽派に於ける界の思想について─Aksarasisutraをめぐって(山部能宜)
『待兼山論叢』第20号哲学篇(1986) [本文PDF閲覧]
問の構造について(入江幸男)
郡雍の〈体〉〈用〉〈心〉〈遊〉について(佐藤一好)
ヒュームの手品─共感概念に関する一考察(高原雅人)
The Bahispavamana Ritual of the Jaiminiyas(Fujii Masato)
『待兼山論叢』第19号哲学篇(1985) [本文PDF閲覧]
ライプニッツにおける実体の概念について(平等文博)
王充における道徳の実践(滝野邦雄)
キルケゴールの「宗教性」について(森田美芽)
ヴァイシェーシカ・スートラにおけるアートマン(安達俊英)
『待兼山論叢』第18号哲学篇(1984) [本文PDF閲覧]
リクールにおける無意識概念の検討─フロイトの〈力〉と〈意味〉の混合言語の分析(池田清)
ヒュームの「感官に関する懐疑論について」(中谷隆雄)
『周礼』の命について(金藤行雄)
初期ニヤーヤ学派の解脱論(友岡雅弥)
『待兼山論叢』第17号哲学篇(1983) [本文PDF閲覧]
へ一ゲルの市民社会論─へ一ゲル人倫論における市民社会の役割について(石崎嘉彦)
『韓詩外伝』研究ノート(一)─『荀子』引用文との対照表(余崇生)
ガダマー「哲学的解釈学」における「伝統」の問題(北川東子)
瑜伽行学派における空性説の展開(水尾寂芳)
『待兼山論叢』第16号哲学篇(1982) [本文PDF閲覧]
批判主義批判としての『行動の構造』─メルロ=ポンティ哲学における自然の問題へのアプローチ(中本泰任)
「原道」成立考(鵜飼尚代)
ヨーガ哲学における苦の問題─ヨーガスートラ研究〔三}(樫尾慈覚)
ヒュームの懐疑論(樫則章)
『待兼山論叢』第15号哲学篇(1981) [本文PDF閲覧]
デカルトにおける物体の概念(上野修)
フォイエルバッハの死の思索(喜多隆子)
劉歆の音律理論(児玉憲明)
リグ・ヴェーダ「一切神讃歌」の神観念(藤井正人)
『待兼山論叢』第14号哲学篇(1980) [本文PDF閲覧]
キルケゴールのソクラテス像─『イロニーの概念』をめぐって(大田孝太郎)
漢初の天人合一思想とその系譜(齋木哲郎)
ニヤーヤ・ヴァイシェーシカ学派の実在論的展開(一)(友岡雅弥)
ヘーゲルにおける絶対的否定と限定的否定─『精神現象学』における主と奴の弁証法についての一考察(石崎嘉彦)
『待兼山論叢』第13号哲学篇(1979) [本文PDF閲覧]
ワルトルの超越(加藤俊史)
漢初の黄老思想(大杉徹)
沈黙とことば(平木光二)
アダム・スミスの共感について─『道徳感情論』をめぐって(谷口文章)
『待兼山論叢』第12号哲学篇(1978) [本文PDF閲覧]
デカルト哲学に於けるコギトと他者について(山口信夫)
ヘーゲルの反省論─反省の推論(吉田六弥)
子産の施策と宗教意識(塩出雅)
ラサの概念(寺内徹)
『待兼山論叢』第11号哲学篇(1977) [本文PDF閲覧]
1910年代のブルジョアジーと日本興業銀行─「工業銀行」化をめぐって(原田敬)
モンゴルの漢地統治制度─分地分民制度を中心として(松田孝一)
ナチス企業細胞組織の成立と発展─「ナチス労働組合」設立問題をめぐって(原田一美)
『待兼山論叢』第10号哲学篇(1976) [本文PDF閲覧]
メルロー・ポンティにおける両義性にっいて(島田正浩)
清末の保守主義─その世界像の解体(小林武)
原始仏教の時間観(橋本哲夫)
カントの「構想力」(三谷和彦)
『待兼山論叢』第9号哲学篇(1975) [本文PDF閲覧]
生成の論理─ヘーゲル弁証法とこれの批判(近藤良樹)
構想力の自由─カントの判断力批判をめぐって(山口和子)
襲自珍思想試論─とくに史を中心として(宇佐美一博)
ヨーガ派の三昧について(加藤正和)
『待兼山論叢』第8号哲学篇(1974) [本文PDF閲覧]
デカルトの心身問題(森匡史)
則天武后と三教(岸田知子)
浄土の性格(大矢正昭)
ヒュームの‘Is-Ought’Passageについて(塚崎智)
『待兼山論叢』第7号哲学篇(1973) [本文PDF閲覧]
ヘーゲル哲学史に於ける論理と歴史(日羽義夫)
譚嗣同思想における「学」について(武田秀夫)
カントの根本悪─その序論的考察(豊田剛)
バガヴァッド・ギーターに於けるカルマ・ヨーガについて(西尾秀生)
『待兼山論叢』第6号哲学篇(1972) [本文PDF閲覧]
デカルトの「高逼の心」について(岩津洋ニ)
「世界において最高善を実現すること」について─カントの『判断力批判』を中心にして(志水紀代子)
嵆康小論─その「遊び」の精神(平木康平)
サーンキヤ原理の解明の問題─vyakta・avyakta・jnaの連関について(山口恵照)
『待兼山論叢』第5号哲学篇(1971) [本文PDF閲覧]
世界への志向(尾崎正彦)
ジェイムズ哲学生成の思想史的背景についての素描(三橋浩)
李大釧の時問論(河田悌一)
『金光明経』の如来蔵説─分別三身品について(高崎直道)
山林におけるキリスト教の受容(一)─和歌山県日高郡龍神村下柳瀬地区におけるカトリック教会の設立(泉琉二)
隔離飼育ニホンザルの行動(山口勝機)
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